昨日、キャリア界隈の勉強会に参加してきました。
キャリアという概念に関わるものへの継続的学びは、もう完全に習慣化されている趣味です。
だからかなにか、結果的に私のところにくるクライアントさんはお仕事相談がおおい。
私の趣味なんてたぶんしらないけど、そんなかんじ。シンクロ?
昨日の講師の先生は、メンタルヘルス系の産業医さんでした。
すんごい独特で、不思議な人だった。
色々お話しいただいた中でも、「キャリア」というものを扱う(それを生業とする)人々の傾向分析は業界関係者必聴といえる、耳の痛さ。個人的に大爆笑でした。
キャリアというと個人個人に言葉の定義があります。
怖いくらいあります(言葉は大概そうですが)。
私の考えでは、この定義化ができないということに気が付いている人が
キャリアと名のつく仕事をしている人ではとても本気の人だと考えていて
昨日もそんな話になりました。
でも、このキャリアというたぶん人生のなかの働くに関わる部分を取り扱っているであろうものは
ちまたでは「つくることができる」「計画することができる」「つーかしろ」となっています。
できない、とは言わないけれども、自分の思い通りにはならないのが実情なのに。
だからといって、このキャリアを他人任せにはできない。他人はなんもしてくれない。
やっぱり、ある程度は自分で考えたり、決めたりしてやっていくしかない。これはあきらめに近い。
でも思い通りになんて、ならない。
なのに、キャリアをデザインするって!と常日頃思っていたのですが。
昨日のスピーカーの先生方の中に、なるほど!という話がありました。
結局、目標を決めてみたり計画してみたりするのは、全て
枠(計画や目標)を壊すためだけにある、ということらしい。
自由に、というのは制限があって初めて成立します。
自分で決める、自分でやっていくために、とりあえずはこんな枠、で動いてみて、現実がでてくる。
その結果は枠通りしなくてもよく、そこから作り直したり、壊したり。それでいい。
そのためだけにデザインするのです。
決断はその時にしかできないから、計画当初と同じでなくなるのはもう当然という。
枠通りに行かない現実に失敗と思うことも多々あります。私もそう感じてしまう。
でも失敗は枠を壊しているだけで、新しい枠を作れというだけのはなし。
ほんとうはそれだけのこと。
そうやって、キャリアはつくられていくというだけのこと。
失敗しろ失敗しろとみんないうけど、失敗したら終わりだと反射的に思うのは
狩りに失敗したら、猛獣にコロサレル!と感じていた遠い昔の記憶。
もしくは、本当につらい思いをもうしたくないんだ、という記憶の場合もあります。
それは仕方がないことなんだけど、でもキャリアにおいては、自分の人生をつくるために
枠を壊したんです。だから、大丈夫大丈夫になるはずなんです。
で、枠にこだわるとつらいんだよね。私も散々枠にこだわって痛い目にあっているので、枠に拘る気持ちはわかるんだよねえ。結果的に今でよかったですけど、そう思えたのはここ数年です。
スピリチュアル的に言えば、エゴの計画どおりにはいかないというやつですかね。