昨日のワタシより。。。の続き。

その1で一体何を書こうと思っていたのかをすっかり忘れてしまいました。
すみません。

比較せず、自分の成長をみようよ、あたりがオチだとおもうのですが、すみません。

でも、私、これの大事さが腹の底から意味がよくわかったのは、最近です。

口先だけならいくらでもいえるし、そう言ってたけど、言行一致したの、さいきんかも。

ほんとに楽ですよ。これ。

他人や周囲が全く気にならない、とはいいません。
そんなことはないです。

ただ、まあ気になるのは人間だもの、仕方ない、というところでおしまい。
そもそも、あまりそこに取り合わないくらいでいいのではないでしょうか。

巻き込まれてわけわからなくなったら、それはその時です。
常に巻き込まれているのは、ちがうぜ、という。

昨日のワタシより今日の私 その1

スピリチュアルなものをしているとですね。
だいたいどこでも

他人との比較や競争は無駄だし、やめといたほうがいいよ

という話になります。
事実です。

健やかな範囲では、他者との競争はいい刺激です。
まあ世の中競争ですよ。競争がないとは言わない。
わざと競わせることもあるしね。

が。わざわざスピリチュアリティとかを生き方の学びとする人にとっては
だいたいろくなことがないというか、ろくなことがなかったから
スピリチュアリティにきたわけでしょう、というところ。

で、次の段階が、じゃあ誰と競争というか、比較をするかになりますが
昨日のワタシ、昨年のワタシ、との比較になります。
今の自分て、昨日より進んでいるなあ!というのをベースにやります。

シンデレラタイムが来たので、次回につづく。

人生目標が成長なら相談も占いもいらない。

昨日、いつもお世話になっている翻訳家の方に会いに行った。
たわいのない話をしつつ、大変励まされて帰ってきた。

話の中で私は今、タロット占いを業としてやっています、という話になった。
そもそもタロットってどんなものなのか、という説明をするなかで、ふと気が付いたことがある。

だいたい、占いとか相談というのは、なぜするのか、なぜいくのかと思えば
悩む・迷う・心配になる・不安になる
からである。

これをやったらどうなるか、これをやらなかったらどうなるか
できるだけ自分にとっていいものを選びたい。不快は避けたい。
少なくとも、この見えない状況に納得をしたい。

という話。

ニーズに合わせてリーディングは変わるけれども
もし、最終的に「人間として成長すれば納得できる」のであれば、相談も占いもいらない。
実は。

というのも、私たちの「私(※エゴとか自我とかマインドとか言い方はそれぞれでしょうが)」の感覚というのは、困難を乗り越えたい、難しいことをしたい、前にすすみたい、拡大したいという根本的な願望がある。どうしようもない。
(。。。という話を改めて昨日翻訳家の方から改めて学ばせて頂いた。そうなんだよなあ。)

となると、困難を感じているであろう目の前の現実に対して、それをやりこなせば、結果はともかくとして、やりこなすまえよりは経験が増えます。間違いなく。
困難を乗り越えた、難しいことをした、前に進んだ、前よりも自分が広がったという経験が増える⇒成長とするとしたら、成長したことになる。

「私」は経験と結果を混同するので、そこはよく諭してあげないといけないけど、結果として望ましいか、は実は成長には関係ないのだ。乗り越えればいい。
なので、「私」の根本願望は少なくとも、叶えてあげることができる。

例えば、ある資格試験を目指していたとする。

1)試験勉強する < 知識や経験を積み重ねる成長
2)試験を受ける <客観的評価に立ち向かう成長
3)落ちる <客観的評価を受け止める成長
4)振り返る <客観的に自分を評価できるようになる成長
5)また立ち直り、次に向かう <更なる自立と精神的成長

結果は落ちるのでまあ面白くないが、簡単にかいただけでも5つ成長している。
ドラマチックに語る人なら、大成長でしょう。
1)~5)を受け入れた自分、も結構「私」という感覚が好きな成長だと思うし。
たとえば、受かるまでやるのケースも、あきらめる、のケースもそれは選択で、その選択も成長!とか強引に言えるしね。
今まで選択を逃げてきていた場合とかは特にね。

ので、人間的に成長したい、が「私」の主たる望みで、それがあれば満足というのであれば、迷うことも成長、自力で決断することも成長、失敗も成長、となってくるので、別に相談する必要はないのです。
間違いなく成長している。

ただ、悩ましい状況下の中、こんな風に分解するのはたいてい「私」の感覚一人では困難なので(それは私を含めてですが)、結果はともかくとして、成長は絶対するにしても、誰かと自分自身に起こっているプロセスを丁寧に見つめたい、プロセスを肯定し受け入れたいとするならば、相談することや占いすることは有効だと思います。
納得のためにも、他人の視点を入れる意味でも、問題と一体化してしまった状態から離れる意味でも。

だから、占いする側、相談受ける側が使うことばとして、よほど「そういう感じ」でないと使えないんだよね。
だって最終的になんでも成長だし、なんでも経験なんだもん(追記参照)。
相談やがつかうなら最終兵器ですよ。。。
その他、たくさんたくさんヒントをもらったのだが、また機会があればかきます。

※追記:私、の本質というか、世界はひとつ、といった視点の個としての私が最終的には経験(成長)を重ねるために来ているという話と、ここで言っている話は同じような話ですが、うまく書けないですが、ちょっとちがうのです。

エゴとかマインドとか、いわゆる「我」の部分がさあ、成長と経験が大事(キリッ)みたいので、よーわからなくなる(そもそもそういう話ではないのに、それで決着させちゃう)ケースってあって、それでいいなら、むやみに相談してもあんまりいみないのよね、を言いたかったのです。

ミラクルを日常に観る その2

先日、こんな日記を書いたのですが、このあと複数名の知人から

え、けっこう返ってくるよね。。。?

という反応をいただきました。
結構みなさん(の家族)、定期を紛失しては見つかる、をくりかえしているんだなあ。
私の知人関係のあるエリアでは返ってこない(けっこうヒドイ経験をする)し、あるエリアでは当たり前に返ってくるようです。

あるエリアからみると、私の経験は奇跡的であり、あるエリアでは当然のこと(奇跡ではない)らしい。

じゃあ、そもそも奇跡ってなにか、というと、しんかいさん(新明解国語辞典)第七版によれば

「実際に起こるとは考えられないほど不思議な出来事」

だそうです。

繰り返され、実際に起こると考えつくことは奇跡と「感じなくなる」可能性がある。
奇跡を日常のなかに観る時に、結局は「あたりまえ」となると感じにくくなるわな。

もし、ミラクルミラクル~な毎日を過ごしたいとしたら、このあたりがミソな気がします。

私は、といえば、先日タロットカードなら大アルカナの「塔」だろ、というようなドカーンとした事件がありました。
(当日出ていたカードは「吊るされた男」だったけど。わからなくもない。)

2、3日間かけて復活を果たしたのですが、この復活のプロセスは奇跡的。。。ではなかったです。
ある種、ああこの件を通じて、わたしは少し前に進むんだな、という感じでした。
最初に受けた、「涙がでるようなショック」が思ったよりも早く落ち着いた。

どちらかというと、復活プロセス(というほどでもないけど)中に、私の涙(笑)とグチにつきあい応援してくれた、友人や家族の存在が「奇跡」かも、とは思いました。
いつの間に、私にはこんなにも味方がいてくれたのか、と。私のグチはほんとうにグチだったからね!
友達とか家族だからって、それに付き合ってくれることは、本当に当たり前ではない。

私にとっては「実際に起こるとは考えられないほど不思議な出来事」のように感じました。

これが「有難い」ということなのかとも思いました。やっぱりありがたいんだなあって。

注目の教授法「アクティブ・ラーニング」を取り入れたタロット・ワークショップ

タイトルはそれっぽく書いてみました。
まあ事実なんですが、なんかいやなかんじだな。

先日、タロットカードミニ講座を開催しました。
タロットの概要を説明した後に、皆さんでタロットをつかったミニ・ワーク。
みんなでカードに触り、実際にリーディング(!)していただきました。

タロットカードは読むのは初めて、の方がほとんどのなか、まあ読めること、読めること!
みなさんが、各カードのもつ大枠の意味の範囲のことをしっかりお話ししていました。
もちろん、私がカードの意味を解説するような時間はなかったので、そうとうフリーにお願いしています。
ポイントとしては、とにかく適当でいいから、思い付きで!とだけ。

タロットは潜在意識から象徴を拾い上げる、とか、78枚が世界をあらわす、とかよくいわれますけど、ほんとうにそうだな、と思いました。ほんとうに誰もに共通するものなんだ、と。

中にはあまりの的確さに衝撃を受けたリーディングも!
※当日、遠方からの参加で車でお越しいただいたAさんについて、あるカードを通して「車でどこでも行ってしまいそう!」というリーディングをBさんがなさったのです。Aさんが車で来たことは誰も(私も)知らなかった。
そのカードはもちろん「車」を象徴するカードでした(^_^)。

私がいちばん、タロットすげーな!と思わせていただく体験をしたのかも。

タロットおもしろいな!の他にも、ワークを通じて、「自分て素敵じゃん!」「そんな側面もあったんだ!他人からみると、そんなにいいところあるんだ!」と客観的にみるとけっこうすてきなわたし、を実感していただきたいなあ!という目的も無事(!)達成できました。よかったよかった。

ちなみに、当日の講座の進め方は今や義務教育にも取り入れられつつある「アクティブ・ラーニング」だったそうです(後から知った)。
アクティブ・ラーニングとはなんぞや、はネットで探していただいて(どうかいい説明にたどりついてね。。。)、参加いただいたみなさんは是非、当日のマス目の用紙、埋めてください!もう埋まってると思いますが、必ず!

アクティブ・ラーニング的にはそれが最後のキモです!

※次回は同じ内容を12月に予定しています。別途ご案内いたします。

ミラクルを日常に観る

先日、定期を朝の通勤ラッシュ時に紛失して、それが数時間後(夕方)には手元に返ってきた、ということがありまして。

で、それをSNSにかいたわけです。

書いたのはコレ↓
………………………………
今日はミラクルが起こったよ!

とかかくといいのかもしれんが、朝、知らない間に定期を落として、すぐに拾ってもらえて、定期がちゃんと保管されていることを告げる電話で紛失を知り、夕方には手元に帰ってきた。
一瞬も悩みや不安、悲しみはなかった。
というより、気づかない間に解決した。

職場の同僚たちに言わせると、定期紛失のわりにかなりのスムーズさ、らしい。

世界はやさしいな。
………………………………

私がかくSNSのつぶやきはふだんあまり友人にウケないのに、「いいね!」がけっこうついたことにびっくりしました。

私は定期券を落とす、ということが人生で2度目なのですが
(1度目もすぐに手元に返ってきた。中学生くらい)
職場の同僚の皆さんの話によると

・まずみつからない
・みつかっても、終点駅の落し物センターお預かりだったりして、取りに行くのが大変すぎる
・払い戻されて、抜け殻
・チャージしてあるお金をつかいこまれてるのもザラ

等々、ロクな話がない。
確かに、私の話はミラクルらしいのである。
ちなみに、私の定期は私が乗り換えで使う駅の隣の駅に保管されていた。
もちろん、その日の朝、その隣駅で降りたりしていないので、まあ不思議である。
定期だけ途中下車したらしい。

で、なんだよ、やっぱり世界って優しいんじゃないか、みたいなきもちで、あまり考えず書いたわけです。
そしたらみんな好きらしい、と。

みんなミラクル(という言葉が)すきだなあ!と最初は思ったのけど、やっぱり、世界のやさしいかんじがいいんだなと思いました。

あとは、一瞬も悩みや不安、悲しみはなかった、あたりもなんかこうエゴさんにやられてない感じがよかったのかもしれない。
事実、それらが介入する隙間がなかったんだけど…。

本当は日常にはこうしたミラクルがたくさん溢れている、のよね。

もっと言えば、日常=ミラクルなのですよ、とかいってみたりして。

「本当は何もないのが普通で、在るほうが異常だ。だが、毎瞬その普通でないことが起こり続けている。だから私はそれが驚くべきことで、奇跡だとも言うのだ(ダグラス・ハーディング)」

※この言葉の素晴らしい解説は是非髙木悠鼓さんのブログ、シンプル道の日々をご覧ください。

自信の育て方

先日、スーパーグランディング系サイキックというか魔女というか、の井上さん(検索でいらした方、とりあえず会いにいってみてね。11月にオープンなクラスあるよ)のゼミに参加した。
テーマは自信について、である。

自信というテーマはスピリチュアル関係のみならず、想像どおりの心理関係でも盛んだとおもうし、キャリアとか教育でも(当たり前だが)やはりフォーカスされる話。

特にキャリアというジャンルについて深めていくとだいたい自己信頼感低いと厳しいよな、世の中も変わったしさ、みたくなるのだ。
安易に自己信頼感の話をキャリアカウンセラーとかキャリアコンサルタントがペラペラしだすと、一体どこの素人だよ、という程度にわかりやすく問題になる話。

そもそも自信、という言葉自体、ふわっとつかいがちである。そのくらいあえて定義を疑うまでもなく、みんなが使うことば。
そして、多くの人が問題に感じるテーマ。

が、あまりに身近故か、案外意味づけが人それぞれ異なるので、自分と違う意味づけの人のはなしをそのまま受け取るといい話が苦痛になったり、逆にお気楽になったりするのだ。
世の中にこんなにたくさん本やセミナーはあるのだが、いまいち効能を発揮しにくい原因のひとつな気がする。

で、私の話ですが、この8月半ば~9月をワークしながらすごし、そして今回井上さんのところでお話を聞き、改めて確信したことがある。

それは。

めっちゃ小さい自分との約束を守ることを積みかさねる

のが私は大丈夫、私ってできるじゃん!という自己効力感を高めるにあたって、今更ながらやっぱりかなり!有用なのだと。

存在の絶対肯定が
「私は〇〇ができる、失敗しても大丈夫。またチャレンジできる」
という行動に影響する肯定感覚を生み出すことにつながることは否定しない。

が、大人になるとやっぱり存在の絶対肯定だけでは行動を生み出すことは難しい。行動のクセのほうがつよかったりするし。あえて変化を起こして死ぬほうが大問題なのがひとのからだ・ひとの無意識。

というわけで、無意識に抵抗されないよう(笑)、小さい行動を積み重ねて、自分で自分を育てるしかないようです。
笑えることに育つんだな、これが。中年でも!

うちの母親は70代ですが、60代後半から町のあつまりで司会など任されるようになり、回数を重ねて自信がついたそうです。これも、私はできる、大丈夫!という感覚をはぐくんだ、といえます。

一方、ただ存在しているだけでいいのだ、という存在肯定・自尊心系のものはこれは瞑想であるとかワークであるとか口癖であるとかでこれもまた小さく積むしかない。

自信といいながら、既に自己信頼、自己効力、自尊心と自がつくことばをあえて羅列していますが、ここがひとによってごっちゃなのです。
よかったら調べて、自分なりに分けて、そして、何を育てたいのかを検討してみてください。

行動面での自信を育てるにあたって、小さい行動と小さい約束を積み重ねるのには、やっぱり好きなことがいいと思います。
やりたくない、なんていうハードルの高いものでやらないように!
あと、他人とか社会とか外側の尺度をもちこまないこと。これ、本当に無意識にやるので、ふんわりやるとやられます。

私の場合だと専門的な勉強がすきだったり、こうやってダラダラかくのがすきなので、そういうので小さい約束をつくりまくっています。ばかにできないよー

【おまけ】

とはいえ、今の自分の状態に適したものは大切だと思うので、たとえば心身共に疲弊した結果の自信喪失であれば、以前ご紹介した下園さんの本のようなアプローチをおすすめしたいです。

あと、自己承認(存在へのアプローチ)では、私が20代前半の時に助けになったのは生きる自信の心理学です。岡野先生はスピリチュアル、という概念を日本に入れる時に春秋社で尽力された方です。キリスト教や仏教、心理学(それこそ流行る前からアドラー!)に大変造詣が深い。
なのに理屈っぽくなく、やさしいです。

ご参考まで。

ホテルラウンジでセッション問題

私のように場所をもたずに何らか対人援助をする人にとって「場所をどうするか(どこでやるのか)」はだいたい最初の課題である。

おうちサロンやレンタルスペース等々、いくらでもなんとかなるのであるが、案外個々人のお考えがいろいろあるものだ。

私は元々はおうちサロン(死)派だった。
富山に住み、オーラソーマ®のセッションをしていた頃は100本を超えるボトルが絶対に必要なので自宅だった。
都内と違ってボトル付のレンタルスペースなどなかったからね。
あのボトルが100本並ぶ圧巻さがやっぱり大事だしね。

で、富山から関東に戻り、最初にやっていたのはヒプノセラピー。
催眠療法はなんといってもねっころがってもらわなくてはならないので、ベッドが必要である。
自分のベッドにお客さんを寝かせる考えは私にはない。
かといって、ふとんもなあ。。。
というわけで、レンタルスペースや友人のサロンをお借りしてセッションを行っていた。

そして今。
やむを得ず自宅を使う時(アクセスコンシャスネス関連は場所の手配がね。。)もあるが、基本外である。
タロットは基本外。

道具のいらないセッションとか相談はまあどこでもいいし、雰囲気重視で言えばやはりそこそこ高級なホテルのラウンジはいい選択肢だろうと思う。セッションやったりお茶会やったり、よくお見かけする。
ふつうに商談とかしてるしね。まあそんなもんだよね。

が。タロットになると、これが違う。
やはりテーブルの上にカードが展開するとなんか目立つのである。
使っているカードが派手でデカいという根本問題もあるが、やはり目立つ。
過去数回、有名ホテルのラウンジでやったが、私以上にお客さまが集中しないケースがほとんどだった。
※大丈夫だったのはセッション慣れしている古い友人とスピ系要素皆無の実の姉だけだった。

ムーディーで騒がしくない、お店の人が無駄に気が利く。これがじゃまなのだ。
もっと言えば余裕がある客層もじゃま。
ムーディーで騒がしくない、雑然としていない、いろんな意味で余裕がある、ぶっちゃけヒマということは、周りがこちらの「なんかやってる感じ」に気が付くのである。その気配がね!ちょっとね!

とはいえ、なんだかいつもと違う素敵な場所にいきお茶を飲むことに私は肯定的(むしろ積極的)だし、お客さまのご希望があればラウンジで行う(やる側は別にどこでも構わないので)。

しかし、おまかせされれば、レンタルスペース、もしくはもっと雑然としたところを選ぶ。
お客さまが鑑定に没入できるところというか。

先日の鑑定も場所をおまかせ頂いたので、最短日程を重視して(というかいつもお願いしているところが全滅していたので)、私の中では定番の場所で鑑定をさせていただいた。
案外、没入できたようでお客さまもびっくりしていた。あまりに意外な場所なのである。
そして、リピートしてくださる方はなぜかいつもそこでやる。場所をきにしないでくださるのよね。いいのかしら。

まあ素敵でテンションが上がればいいってもんでもない、ということで。

本来はやっぱりレンタルスペースだとおもいます。はい。
それかもっと目立たないカードを使えばいいんだな。うむ。

自分の行いを仰々しくしない。

昨日、遠い昔に行った占い師学校の同期であるアーティストマルモッチさんと久しぶりに食事をした。

※当時は占い師になるつもりなんてまったくなくて、単なるスピリチュアルおけいこで行っただけでした。技術をおそわったというよりも、気合を学んだ気がする。
 でも、気合を学んだ結果、「私、けっこうイケるんじゃあ。。。」とかなり勘違いさせてもらえたことが今につながっているので、結果的に?はよかったとおもいます。

あまりにいろんなことを話し過ぎてよく覚えていないのだけど、みんな自分がやっていることに本当に仰々しい意味をつけたがるよなあ、ということを話したり、思った気がする。

彼女は独特の世界観のものを作る割に、人としてかなり真っ当なので、仰々しい意味をつけない。
そもそもついていてもおかしくないというか、周囲は仰々しさを望み、そこに苦労している気すらする。

私も占いしたり、相談受けたりするけれども、それって単にそれ以上に意味があるのだろうか。
お客さまや相談者が占いを受ける、相談をするにあたって、必ず目的がある。
その目的はそらしてはいけないし、その目的に合わせたサービスの提供はむしろあたりまえ。
私の仕事の場合は目的をはじめから見せない人も多いから、そこはたぶんこちらがケアするところなんだとおもう。

鑑定内容や相談アドバイスが相手にとってよきものでありますようにとは思うけど、占い(未来予測)も結果が相手にとって耳障りのいいことばかりではないし(そのために適切な現状分析を行うし、対応策を読み込む訳だし)、相談もお客さまの望みどおりになる現実をもたらす魔法があるわけではない。

それこそ、魔法のような結果や魔法のようなプロセスに遭遇することはあるのだけど、それって相談や占いのあとにおこることなんだよねえ。
それは占いのおかげ、相談のおかげとはちがう。
行動指針や魔法の予感をカードがしめすことがあったとしても、やっぱりそれを実際にやったお客さまが主役なのであってさ。

相手が望むだけ、受け取れるだけの質と量を提供すればいいとおもうのです。
相手が望むものが少ないけど、受け取れるなら自然と増量されたりするしね。
相手がたくさん望んでいるようにみせて、なーんも受け取れなかったり。

私もそうだったので、すごく恥ずかしいのだけど、出来ることをてんこ盛りにして相手に渡そうとするのも、相手からしたら迷惑だったりする。
てんこ盛りにするのは経験もスキルも自信がないことの現れだったな、と遠い昔をおもいます。
量でカバー。これもある種の仰々しさだった。

少なくてもだめ、多すぎてもだめ。
自分の行いを仰々しく盛り過ぎないように。

いちファンとして、参考までに。

わたしのこのインターネットの海の最果てブログに訪れる方が
透視リーダーの井上真由美さんを検索して訪れる方が多いようなので
(ボイジャータロットより多いwww)

フアンとしてコメント。

感想は井上さんのブログにたくさん掲載されていますでよ。
あと、私個人としては、是非一度セミナー受けるなり、セッション受けるなりされてみてはいかがでしょうか。
井上さんとおなじようなことをペラペラしゃべる、知ったか風のスピ系さんはたくさんいます。
が、実践していきてるひとっつーのはこういうことか!というのがよくわかる。
本当にふつうに、ちゃんとなさっています。

合わなければそれだけのことですし、きになるのなら是非いちどどうぞ。